岡山県総社市 鬼ノ城  歴史&観光案内情報


実際本当にいたのだろうかと思う鬼
その鬼について  ちょっと見てみますか

あたしゃぁ頂上で下界を見下ろしながら食べる、おにぎりが格別に美味いと言いながら、この日はパンを買って行ったのであった

地図はこちらから
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.72742639&lon=133.77233972&ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&p=%E9%AC%BC%E3%83%8E%E5%9F%8E&sc=7


桃太郎説話や「温羅(うら)伝説」の舞台として、古くから親しまれてきた鬼ノ城(きのじょう)。その築城の目的については、663年の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いにおける敗北から、唐・新羅(とう・しらぎ)の連合軍が本土に侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた古代山城の一つであるという説がよく知られています。しかし鬼ノ城は、『日本書紀(にほんしょき)』などには一切登場せず、築かれた時期についても様々な説があり、未だ多くの謎に包まれた遺跡です。
 昭和53(1978)年の鬼ノ城学術調査団による調査、さらに平成6(1994)年からの総社市教育委員会による発掘調査が行われ、角楼(かくろう)や城門など、城の外郭(がいかく=外側)の壮大な姿が次々と明らかになりました。城内については、平成11(1999)年に当センターが確認調査を行い、礎石(そせき)建物群の様相や鍛冶(かじ)関連の遺構(いこう)の存在が明らかになりました。今回は、前回の確認調査で得られた成果をもとに、より広い調査区を設定し、平成18(2006)年度から7か年計画で調査に取り組んでいます。


鬼ノ城とは!?
http://homepage2.nifty.com/mike1203taiyo/kibiji/kinojo/kinojo.html

イベント案内
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kinojou-ibent.html

ミステリアスゾーン 吉備津彦神社も関連!?
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/9987/kj.html

世界遺産登録
http://alpha.c.oka-pu.ac.jp/kinojo/

くちこみ観光情報 じゃらん
http://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2001.do?spotId=43530ah3330122170



鬼の城公園の由来

昔、この地には体長数丈にも及ぶ大蛇が棲んでいて、時に人畜に害を加え農作物を荒らしたりするので、里人達はこの山を「鬼の城」と称し危難を恐れて容易に立ち入らなかったという。いつの頃かこの地方を行脚中の高僧がこの噂を聞き、人々の難渋を救おうと山中に入り数日間高らかに経文を唱え、ついに大法力をもって大蛇を退散せしめと伝えられている。露出した岩肌には当時大蛇が巻いていた痕といわれる地層の窪みが、丘を取り巻くように遺っている。明治初期から近郷の人々により石仏数十体が、この窪みに寄進安置されて以来、鬼の城は一躍信仰の霊場となり、また北方の丘を「仏の城」と呼ぶようになった。

 大正10年(1921)山崎大観という旅の僧が鬼の城の一隅に洞窟を堀、その奥に不動明王を刻み、ここに起居して托鉢修行に励んだという。大観師は弘法大師の石像の建立を発願、御領の石工等に依頼してやぐら山(浦園)の石切場から巨大な凝灰岩を切り出し、多くの信者の強力を得て2キロの悪路を21日要して鬼の城へ運んだ。石像は高さ約3m余下浦の石工大塚源作氏が全国行脚中の大師の姿を製作したものである。その後仏の城に牛馬の守護を祈願して馬頭観音が建立されている。
 昭和10年(1935)には信者の浄財により、大師堂が竣工、御領の仏師永田松好氏の見事な大師の木像が安置され、近郷はもとより九州各地から参詣に訪れる人が多くなった。
 昭和46年(1971)年五和町は、明治100年事業として、町内各地に散在するキリシタン墓碑百数基をこの地に移し、ここを「鬼の城キリシタン墓碑公園」とした。
 春は桜、初夏は数千株の天草つつじが新緑に映え、秋は広大な蜜柑園が行楽客の目を楽しませてくれる。


ゴルフクラブもありますがな
http://www.kinojo.kibi.jp/